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STATEMENT

"うねるキャンバス"

 

鉄板をうねったキャンバスに見立てて加工し、曲面に絵画空間を与えた作品のシリーズ。

描いた絵が、空間や時を歪めるように見える瞬間がとても不思議です。
私は昔から筆圧が強く、絵を描きながら実際にキャンバスをへこませたり、紙に穴を空けてしまったことがありました。
それが何かの執着心を象徴しているような気がします。絵を描くことは人間にとって、どういう意味があるのでしょうか。

平面に空間を描くこと、実物の平面を歪ませること、これらを絵を描く作業と合わせて発生させてみます。

”絵筆で照らす”

これらの作品は、雪舟の慧可断臂図に影響を受けて制作したものです。

達磨が座禅を組む洞窟とその奥の壁に、絵筆を松明のように掲げて持つ手を描きました。

絵を描いているとき、キャンバスが大きな壁のように思える時があります。

絵の具をキャンバスに付けたり取ったり、絵筆で線を引いて、重ねて消して、また線を引くという作業を繰り返していると、空間を切り裂いているような感覚になります。

切り裂いて、また塗りつけ、穴を広げて、洞窟を掘り進めているように感じます。

 

現実の社会にも大きな見えない壁があり、洞窟のような窮屈さがあります。

日本人で油絵を描いていること。女性であること。

女が30歳だからって一体なんなんだろうと思うのに、社会の言う常識に怯えてもいます。

 

私にも壁があるように、すべての人にあらゆる見えない壁があります。

 

私の絵が、どれかの壁に突き刺ささればいい。

言葉で言えないことは、絵で描くしかない。

過去を読み返し、イメージを選んで、絵の具と平面と格闘すること。

それが自分自身の救いにもなっています。

私は暗い洞窟のその先を、絵筆に頼りながら、掘り進めて行こうと思います。

 

人類最古の絵も洞窟の壁にありました。

絵は人間にとって、生き抜くための一つの手段に違いないと思っています。

 

このような私にとっての「洞窟、壁」が、慧可断臂図に重なり、この絵を描きました。

 

慧可は参禅の決意として自分の左腕を差し出しましたが、

私は腕なんて切りたくないので、絵筆をぐいっと差し出します。

"​リンゴ”

キャンバスに線を引き、絵の具を付けて取ってまた付ける、絵を描く動作は、なにかを切り裂くような感覚に似ています。

私は、絵筆をナイフのように扱って、リンゴというモチーフの外の皮を削いでいきます。

リンゴの絵を描くとき、セザンヌのリンゴの絵を思い出します。

キリスト教では知恵の実として登場し、西洋絵画の重要なモチーフの一つでもあります。

私はそれらのリンゴにまつわるストーリーを持たない日本人です。

リンゴは外国からやってきた果物なのです。

リンゴというモチーフを油絵の具で描くとき、私は、その”知恵”を紐解き、そぎ落とし、また自立させければなりません。

実のない皮だけのリンゴは頼りなく見えるかもしれません。

でも実や芯なんてなくても、絵は絵だと思います。

リンゴなんて皮むいてすぐ食べればいい。

私のこのリンゴの絵は、壁に立ち向かっていく、決意表明みたいなものです。

「あなたの顔は、よく見える」

この作品は、逆光をモチーフに「見ること、見られること」をテーマとして描きました。

 

この絵に描かれている手前の人物は、背後からの光によって真っ黒なシルエットとなり表情はわかりません。

絵の前に立つ私たち観客の顔が光に照らされてます。

この絵は私たちを見ています。

絵は観客が見るものですが、この絵の前に立つと見られるのです。

 

芸術は新しい価値観や見方を発見することが出来るものです。

自分が見るだけではなく、見られることも意識することで物事の認識の幅が広げられるのではと思います。

 

私たちが当たり前のように認識している、見る見られるの立場を逆転してみたいと考えて描いた作品です。

​"向こう側から”

画面いっぱいに広がるのは、絵画の裏側です。
木枠は崩れ、キャンバスは切り裂かれています。
大きな裂け目から、女の人が向こうを見つめています。
絵画は、壊され破かれ、また組み立てられ、私はどこにいるのだろう。
彼女は、見られているのではなく見ています。

向こう側にいるのは、観客かもしれないし、または私自身かもしれません。

”From the other side”

  

Standing in front of this piece, what fills is in fact the backside of a painting with a broken wooden frame and its canvas torn. In the gap of the torn canvas, you can see a woman looking out. The painting has been destroyed, torn, and then re-built. In the process of making this work, I have lost a sense of myself.

The woman is not being looked at, but she is actively looking. On the other side of her gaze, there will be an audience or maybe myself.

"TEXTシリーズ”

作品の題名となっているのは、小説などの既存のテキストから無作為に選んだ文章や言葉です。それらは、前後の文脈から切り離すことで、単なる言葉の組み合わせになります。そこから連想されるさまざまな映像や思考を利用し、絵を描いています。

様々な要素を組み合わせ、出来上がる実際の絵には思いがけないイメージが表れます。 自分で考え出しているのに、自分のものには見えません。自分のイメージでもありな がら、だれか知らない他人のイメージにも見えます。 そうして、誰かのイメージから作り上げた私のイメージが、また誰かの中に取り込ま れていくことになります。誰かの中で何かの象徴やきっかけとしてイメージが作られ、 終わり無く続く物語の一部として、繋がっていくことになってほしいと思っています。 

“TEXT series"

My images from sentences randomly selected from text, letting irregularity enter the otherwise continuous flow of narrative so as to deplete words from their assigned meanings. In doing so, my images begin to have a life on its own, sometimes even surprising myself. Are the shapes and shadows resurrected fragments of a long lost memory, or completely imagined? Where do these images come from, and how are they born? with these questions in mind, also asking the viewer to ponder upon their own inner images.

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